Apple Computer Rainbow Logo

Apple の歴史①

特集
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Apple Computer Rainbow Logo

 Steve Jobs が亡くなってから、1年半くらい経過。現在の Tim Cook 体制になってからというものの、iPhone 5 の部品の発注が半減など決して順風満帆とは言えないニュースも出てきています。一時は、iPhone 5 発売前までに700ドルを超えた株価も今や500ドル代。暗雲が立ちこめてきているといえます。個人的には、700ドルの株価はバブルとも思えるような価格ではあると筆者は思ってはいましたが・・・。

 しかし、今回は Apple という企業の成り立ちについて触れてみたいと思います。

Steve Jobs Steve Wozniak

 Apple は、大学を中退してアタリの技師をしていた Steve Jobs とヒューレット・パッカードに勤務していた Steve Wozniak たちによって設立されました。1976年に Apple Ⅰ を開発しコンピュータショップのオーナーに50台を納品。初期は売れ行きが良くなかったものの2ヶ月ほどして好転、さらに大量に生産しようとした Steve Jobs はマイク・マークラとバンク・オブ・アメリカから投資を受け、1977年1月3日、Apple Computer を法人化しました。

Apple Ⅰ

 ※ ちなみに現存している Apple I は世界で約50台といわれ、その中でも動作するものは6台しか存在しないと言われています。2012年6月15日には、実働する Apple Ⅰがサザビーズのオークションで37万4500USドル(約2950万円)で落札されており、コレクターズ・アイテムとなっています。

 1977年5月には、ナショナル・セミコンダクターからマイケル・スコットを引き抜き、彼を社長の座につけました。実は、当時の社長は Steve Jobs ではなかったのです。マイケル・スコットは、Apple の組織化のために社員証を発行。1番には、Steve Wozniak、0番には Steve Jobs(振込先の銀行が0番に対応していなかったため、実務上は2)、3番にはマイク・マークラ。4番に、マイケル・スコットが割り当てられました。この社員番号を巡る争いは有名な話だったりします。

Apple Ⅱ

 それを前後して、Steve Wozniak は勤務していたヒューレット・パッカードを退社。Apple Ⅰ の再設計に注力し始めました。処理能力の向上、外部ディスプレイへのカラー表示、内部拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダーを搭載する Apple Ⅱ をほぼ自力で開発。Apple Ⅱ は爆圧的に売れ、1984年までに200万台を超え莫大な利益をもたらしました。

 その後、1980年に Apple は株式を公開し、Steve Jobs は所有していた750万株から2億5600万ドルの資産を手に入れることになったのです。

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 Apple の歴史第2弾!今回は、1980年代の Apple を見てみようと思います。1980年代は Apple にとっては、その後の凋落していく前兆のような時代とも言えました。Apple の時代の中でも重要な時期に当たるため、2回に分けて見ていこうと思います。

 Apple Ⅱ の大成功は、その後の IBM の PC 市場への参入を決断させ、1981年になると Apple Ⅱ は次第にシェアを奪われるようになりました。ちなみに、その当時の新聞広告「Welcome, IBM. Seriously」と挑発したのは有名な話です。その頃から、Apple Ⅱ の次世代 PC 開発 Lisa プロジェクトが立ち上げられました。Lisa プロジェクトでは、XEROX 社の工場見学からインスピレーションを得た Steve Jobs がビットマップディスプレイとマウスでの操作を設計に盛り込むように介入を行いました。しかし、当時の社長であった Michael Scott は、Lisa プロジェクトの混乱につながると考えジョブズをメンバーから外したのです。
 

Lisa

 
 ※ Lisa は1983年に発売されたものの緩慢さと高価であったため商業的に失敗しています。
 
 一方、Apple Ⅱ が一般の人には複雑すぎると考えていた Jef Raskin(1979年入社)は、500ドル台の PC の開発をマイク・マークラに提案し、Machintosh プロジェクトを開始しました。
 
 ※ Macintosh は北米でポピュラーな小型のリンゴのの品種名(綴りは、McIntosh)です。
 
 当初、Macintosh プロジェクトに興味を示さなかったどころか、開発にすら反対の立場だった Steve Jobs は、1981年に突如として参加。ハードウエア担当に Steve Jobs、ソフトウェア担当が Jef Raskin となり、取締役でもあった Steve Jobs の働きで予算も開発メンバーも増えました。しかし、Lisa プロジェクトよりも上回るものに使用とする Steve Jobs がソフトに対しても介入を行ったことで、2人の対立が深刻化し、1982年3月に Jef RaskinApple を退社。
 

Macintosh

 
 その後の Macintosh の開発は遅れ、実際にリリースされたのは1984年1月にまでなりました。あの有名なスーパーボウルの伝説の CM とともにデビューしたのです。ただ、リリースされたものは、Apple Ⅱ との互換性が全く無く、サードパーティーのソフトもほとんど存在していませんでした。ただ、Macintosh 向けにキャノンと共同開発したレーザープリンターである LaserWriter を登場させ、当時のアルダス社(現 Adobe Systems)と共同開発した PageMaker と Macintosh を組み合わせることで DTP という市場を創りだしました。現在でも DTP 用途で Macintosh が多用されているのは、これが由来だったりします。
 
 一方、1980年代は Apple の経営陣においても激動の年代だったと言えます。 まず、1981年に Michael Scott は能力不足を理由に Mike Markkula に解雇。Mike Markkula が暫定的に社長の座についたものの、会長であった Steve Jobs 自身が自分の経営者としての資質に疑問を抱いていたため、 Michael Scott の代わりとなるマーケティングに優れた人物を捜していました。
 
 Steve Jobs は、当時、ペプシコーラの事業担当社長をしていた John Sculley に白羽の矢を立てて、18ヶ月に渡って引き抜き工作を行い、1983年に John Sculley を Apple の社長として迎えました。当初は、両者の関係は「ダイナミック・デュオ」とも呼ばれ良好であり、経営も順調に行くように思われていました。しかし、1984年のクリスマスシーズンの需要を見誤ったことで、Macintosh の過剰在庫に悩まされ、第4四半期で初めての赤字を計上し、従業員の1/5を削減することになったのです。このことが、両者の関係を一変させました。
 
 ジョン・スカリーは、Apple の経営を混乱させているのが Steve Jobs と考え、1985年4月に取締役会へジョブズの Macintosh 部門からの退任を要求し、承認されたのです。しかし、穏便に Steve JobsApple から去ってくれると思っていたものの、中国に John Sculley が出張している間に Steve Jobs は、彼の追放を画策するも Jean-Louis Gassée がスカリーに密告。スカリーは、1985年5月24日の取締役会で Steve Jobs の画策を問い質し、他の取締役に SculleySteve Jobs のどちらかを選ぶように要求。取締役会のほとんどが John Sculley を選び、同年5月31日に Apple での全ての業務(会長職を除く)から外されたのです。
 
 Steve Jobs は、大人しく会長職にとどまることを良しとせず、当時所有していた Apple の株を1株だけ残し約650万株をすべて売却し、NeXT 社を設立し、同時にスカリー宛てに郵送で辞職願いを提出し、会長職を辞任しました。
 
 今回は、1980年代の Steve JobsApple から去るまでを見てみました。次回は、1980年代後半から衰退期の Apple を見てみようと思います。

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 Apple の歴史をさかのぼる第3弾!今回は、1980年代後半の Apple を見てみようと思います。1980年代後半から1996年までの Apple は、暗黒時代とも言える時とも言えます。Steve Jobs の追放に成功したジョン=スカリーは、自分が技術分野出身でないtことにコンプレックスを感じていたようで、技術者として評価を得るために1987年に「Knowledge Navigator」というコンセプトを発表。ノート型コンピュータや音声認識技術というコンセプトは、当時でこそ技術的な問題があり困難であったものの、後の iPhone への Siri の搭載へ繋がっていくことを考えると先見の明はあったのではないかと思われます。当時、Macintosh と共に Apple の柱となる製品として「Newton」を開発しており、「Knowledge Navigator」に通じる物を感じたジョン=スカリーは、プロジェクトに注力していくようになりました。しかし、当初は「Newton」の開発を承認したジャン=ルイ・ガセーも Mac の開発に集中すべきだと考え、両者の関係は悪化。最終的には、ジャン=ルイ・ガセーと「Newton」開発を担当していたスティーブ・サコマンの両者ともに Apple を去るという結果に陥ったのです。
 

Newton

 
 両者が Apple を去った後は、ジョン=スカリーが最高技術責任者(CTO)としてジャン=ルイ・ガセーの責任者につきました。そして、「Newton」プロジェクトを継続して膨大な予算と人員を投入して開発を進め、1993年に「MessagePad」を発売。しかし、セールスポイントであった手書き認識率が低い上に価格。携帯端末としては、サイズが大きかったことから販売はふるわず。この業績悪化を理由に、ジョン=スカリーは Apple を去ったのです。その後釜には、ヨーロッパで Apple の売り上げを3倍にまで拡大させたマイケル・スピンドラーが就任。ただ、ジョン=スカリーの評価すべき点は、もし、彼がこの「Newton」プロジェクトを推し進めていなかった場合、iPhone や iPad という製品が生まれていなかったのかもしれません。
 
 Steve Jobs 追放と前後する1985年6月頃、Microsoft のビル・ゲイツは AT&T や HP(ヒューレット・パッカード)などに大して Mac OS のライセンス提供を提案したが、Apple はハードウェア事業の利益率の高さから Mac OS のライセンス販売を拒否。この結果、6年後には Microsoft の Windows 3.x と Intel の CPU やチップセットを搭載したコンピュータである通称「Winltel」が PC 市場を席巻していきました。
 

Power Mac 6100

 
 Apple も1991年に IBM と CPU メーカーのモトローラと提携して対抗。モトローラの主力 CPU であった「6800」シリーズは Intel の「i486」と比較してクロック数で負けていました。Intel がさらなる高クロック CPU を開発していくのに対して、Apple は IBM の「PowerPC」で対抗。これをベースとしたハードウェア「PReP」やオブジェクト指向の OS「Taligent」、次世代開発環境「Kaleida」の3本柱を立てて開発に力を入れていきました。しかし、多大な人員と資金を投入したにも関わらず開発は遅れ、結局は実を結ばなかったのです。
 
 そして、一度拒否した Mac OS の他社へのライセンス販売を行い Mac OS を積んだ互換機(クローン)の製造を認めるようになります。IBM やモトローラなどの PC メーカーを利用して Mac の市場拡大を図ったものの、市場拡大どころか Apple 自身の顧客を奪われてしまうという皮肉な結果となりました。1995年には、追い打ちをかけるように Microsoft が「Windows ’95」を発売し、記録的な大ヒット。結局、Apple は互換機と「Windows ’95」に苦しめられ困窮していきました。
 
 ジョン・スカリーが去った1993年頃から当時の Apple の経営陣は、身売りを検討していたと言われています。そのために、少しでも高値で Apple を売却できるようにするために、就任したのが次の CEO マイケル・スピンドラーだったようです。ただ、キャノンやサン・マイクロシステムズなどとの買収交渉も失敗し、1996年に、マイケル・スピンドラーは成果をあげられず CEO を辞職しました。もし、この時に Apple が売却されていた場合、今の Apple は無かったかもしれません。
 
 その後、半導体企業の再建で評価の高いギル・アメリオが CEO に就任。彼は、Apple が抱えていた300近い開発案を50まで絞り込み、無計画な開発状態を整理しました。また、Mac の過剰在庫を減らすなどのリストラを行いました。これによって、会社のスリム化を実現し、再生への下地を作り出しました。しかし、再建の下地を作り出すという成果は出したものの新たな製品を産み出すビジョンには欠けていました。そこで、スポットライトに当たったのはかつての Apple の創業者の一人、Steve Jobs だったのです。
 
 ちなみに、半ば追放という形で追い出された創業者 Steve Jobs 本人は、新たな企業 NeXT Computer を設立。また、後に「TOY STORY」などのビッグタイトルを抱えることになる「Pixar」の前身であるルーカスフィルム社の CG 部門を買収など積極的に投資を行っていきました。
 
 次回は、創業者 Steve Jobs が Apple へ戻る1996年頃から見ていこうと思います。

Apple Computer Rainbow Logo

 
 前回は、Apple の業績低迷期と創業者の一人「Steve Jobs」が戻ってくる直前を見てきました。今回は Apple が業績を回復していくきっかけにもなった「Steve Jobs」の帰還の時期を見ていきたいと思います。
 
 前回も触れたとおり、「再建屋」のギル・アメリオを Apple の会長マイク・マークラが招聘して以降、開発プロジェクトを絞り込み、Mac の過剰在庫も一掃。しかし、Apple を身軽にすることでスリム化を実現し、再生への下地を作り出すことはできても、何よりも重要な新たな製品を産み出すビジョンに欠ける人でした。
 
 彼は、腹心の CTO であったエレン・ハンコックに次期 Mac OS の基礎技術の外部調達の調査を指示。そして、「OS/2」、「Windows NT」、「Solaris」、「BeOS」の 4つを候補にあげました。中でも有力候補と考えられていたものが、かつては Apple の幹部でもあり、Steve Jobs の追放にも関わった「ジャン=ルイ=ガセー」の創立した Be 社の開発したマルチメディア分野に強い「BeOS」だったのです。
 
 一方、Apple が次期 OS の外部からの調達を検討していることを細々と運営されていた Steve Jobs が創立した NeXT 社の幹部に耳にし、秘密裏に Apple への接触を行い秘密裏に準備を進めていきました。そして、準備が整った段階でプライドの高い Steve Jobs に進言、Steve Jobs も Apple への復帰を望んでいたことから、ギル・アメリオに対して自社の OS「NEXTSTEP」のプレゼンテーションを行ったのでした。
 
 本命と思われていた「BeOS」のガセーは、未完成であったにも関わらず Apple の足下を見て高い買収額を提示し、交渉が難航。結果として、Jobs とガセーが最終プレゼンを行うという最終決戦にまで持ち越されたのです。これによって、Steve Jobs は大きなチャンスを手に入れたと思い、用意周到に準備。一方、鷹をくくっていたガセーは事前に準備をせずにいました。
 
 そして、プレゼンは用意周到に準備を行っていた Steve Jobs が勝利。1996年の終わりに、Apple は NeXT 社の買収で合意。Steve Jobs は、ギル・アメリオの特別顧問として復帰したのでした。このプレゼンテーションが Apple という企業にとって重要な意味を持つというのはプレゼンの名手としても有名な Steve Jobs の本が出版されていることからも想像に難くないかと思います。
 
 ※ ちなみに、敗北したガセーは結局 BeOS の商用製品としての完成をもたらすことができずコンピュータ業界での存在感を失っていきました。
 
 Apple に復帰後の Steve Jobs は、自分を復帰させたギル・アメリオを追放するために暗躍。業界紙記者に依頼し、彼の無能さを示す記事を書かせ、二人は対立。そして、ギル・アメリオは 1997年7月に Apple の CEO を退任したのです。
 
 一方で、ギル・アメリオを追放させた Steve Jobs は正式な CEO としては就任せず「暫定 CEO」という肩書きを用いました。これは、彼自身が Apple を再建できるという確信が無かったため、失敗した場合の失敗者としての烙印を押されることを嫌がったからと言われています。プライドの高かった Steve Jobs の性格からいっても、納得のいく話ではあります。
 
 そして、「暫定 CEO」となった Steve Jobs は、互換機メーカーの一掃から着手。さらに、当初は Mac OS 7.7 としてリリース予定だったものを「Mac OS 8」としてリリース。これにより、互換機メーカーと交わしていた「Mac OS 7.x の間は継続する」という契約を反古にしたのです。
 

iMac G3

 
 さらに、1998年には通称「おにぎり」とも呼ばれ、その奇抜なデザインやボンダイブルーアイスホワイトのトランスルーセント(半透明)のツートンカラーで構成され、世界的に話題にもなった初代 iMac をリリース。この愛らしいデザインの一体型 Mac は爆発的な人気となり一種の社会現象にもなりました。この影響を受け、家電製品や文房具などにも半透明のツートンカラーが流行。また、PC メーカーからも類似品が出たほどでした。このツートンカラーの Mac は、その後の iBookPowerMac G3 にも踏襲され、その後の Apple の好調なスタートを代表する象徴的な存在であったとも言えます。
 
 ※ ちなみに、このツートンカラーの Mac のデザインを行ったのは、今では製品デザインでお馴染みとなったジョナサン・アイブでした。また、ハードウェアの設計においては、NeXT 社から連れてきたジョン・ルビンスタインが大きく関わりました。
 
 Steve Jobs が亡くなってから1年以上経ちましたが、彼が Apple という企業の黄金期を作り出したのは事実でしょう。ただ、彼だけの力でできたものではないのも事実です。また、こういった歴史から見ていくと彼の強引さや冷徹な一面なども見ることができるかと思います。そして、今の Apple へと繫がるジョナサン・アイブの存在など、Apple の黄金期を作り出していったものは積み重ねていった物であるものであるとよくわかるかと思います。
 

20th Anniversary Macintosh

 
 ちなみに、ジョナサン・アイブは、1997年には「20週年記念 Mac」のデザインも担当。全世界の12,000台の限定生産され、Bose 社のスピーカーや革張りのキーボードで発売しましたが、商業的には失敗。最終的に、投げ売りされるという運命を辿っていたりもします。必ずしも成功だけというわけではないということですね。
 
 今回は、Steve Jobs が Apple へ復帰していく過程と Apple が再生していく過程の初期を見ていきました。今、考えても当時、初代 iMac が TV で取り上げられ、私自身も興味を持ち欲しいと思ったのが懐かしいです。残念ながら、当時の iMac を購入することはできませんでしたが・・・。

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